ドラマ「凪のお暇」5話目を見て思ったこと




最近、妻の影響で、金曜ドラマの「凪のお暇」を見ている。本日、第6話目の放送となるので、その前に、5話目を振り返って、自分なりの感想を本エントリーにしたためようと思い立った。

以下は5話目のネタバレを含む。録画してまだ見ていない、という方は、読まない方がいいかもしれない。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

隣人のゴンに心奪われてしまった凪は、彼の人たらしとも言える性格に翻弄され、次第に自堕落な日々を送るようになる。心配で駆け付けた慎二に叱咤されるが、彼女の心はここにあらず。
空気を読むことに辟易していたはずなのに、気付いたらリセット以前の彼女に戻ってしまっている。

そんな中、今回の話(第5話)で凪は、ふとしたきっかけによって、うららとみすずの生き様に触れ、思い出したように自分を取り戻していく。
さらに、彼女ら(うららとみすず)の一件がひと段落した直後、思い立ったように「旅に出る!」と言い残して、勢いよく自転車を漕ぎ出す。目的地はゴンとの思い出の海だ。

道中は決して順風とは言えない。明るかった空が真っ暗になるほどに迷った挙句、ナビに使用していた携帯電話の充電が無くなる始末。行く先を見失い、足掻く姿は、まるで、ここ最近の彼女自身をフラクタル構造的に表しているかのようだ。

満身創痍で辿り着いたのは、目的地である海…ではなく、なんと、慎二行きつけのゲイバー、バブル2号店。
凪は、バブルのママ相手に、自分の気持や近況をあけすけに語る。
そんな彼女にママは、特製のどんぶりを差し出し、「これ食べて海まで行ってこい」と激励する。折れかけていた気持ちを、偶然立ち寄ったバブルにて立て直すことで、無事に目的地の海まで辿り着くのであった。

 

ということで、5話目を見終わった私は、「空気」というものについて、自分なりに考えてみた。空気を読めない人というのは、ややもすれば、周りから煙たがられるというイメージがある。自分をさらけ出すのは、嫌われるリスクを伴うと思われがちだ。しかし、本当にそうなのだろうか。
空気を読まないということは、決して、他人を傷付けて遠ざけることではなく、ましてや、他人を蔑ろにすることでもない。

うららとその友人達は、大人の前では空気を読み、子供同士になれば、いつもの間柄に戻る。つまり、空気を読む場所と、読まなくても良い場所をしっかりと見極めている。
そうして上手く立ち回ることが、潤滑な人間関係を築いたり、健康的に生きていく秘訣だったりする。

結局、凪は、当初の目的であった「ゴンから貰った合鍵を海に投げ捨てる」ことはせず、彼に手渡しで鍵を返すという選択肢を取る。食い下がるゴンに対して、空気を読まずに、はっきりと自分の気持ちを伝えることで、曖昧な関係に自ら終止符を打ったのだ。
結果的に彼女は、ゴンの心に、それまでとは違う特別な感情を植え付けることとなる。それは、言うなれば、彼女が彼女らしく振る舞った故の副産物だろう。

もしも、彼の中に芽生えた感情の正体が、恋心だとするならば、凪はゴンという場所において、空気を読まなくても良い、ということになる。
ゴンに翻弄され、空気を読みまくっていた日々に決別し、自分らしさを取り戻したとたんに、今度は逆に彼の心を掴んでしまった、ということだ。

現実世界では、ここまで単純に事が進むことはそうない。しかしながら、「空気を読まない」という選択肢を掴み取る勇気を与えてくれる話だな、と思った。
そしてそれと同時に、慎二が市川に言い放った「八方ブスより良いんじゃない」というセリフや、上述したうららと友人達の立ち回り方によって、「空気を読む場所を見極める」ことについても、生きていく上では重要な要素であると言っている気がしてならない。

凪の様に住む場所を変えても、人間関係というものは付いて回るのが世の定め。付き合っていく相手をリセットしたとしても、また新たな問題が浮き彫りになり、根本的な部分は解決しないだろう。それならば、「空気を読む場所」、「読まない場所」を見極めることに注力した方がよっぽど建設的なのではないか、と思えてくる。